SHORT STORY

HIGH CARD Short Story - 008 10月4日のスウィートハニー

作:武野光  絵:えびも

 朝陽が差し込むガラス戸が開くと、紅のスーツを纏った男が支店に入ってきた。
「お、全員揃ってるのか。精が出るねえ」
 クリスだ。傍らのカウンターに視線を落とす。
「ウェンディ女史も今日はお早いご出勤で」
「なにそれ、嫌味!? 誰が遅刻魔よ! おはよう!」
 カウンターで事務作業をしていたウェンディが怒気の勢いで立ち上がる。
「ま、真に受けるなよ。ほんの朝の挨拶でしょうが」
 クリスは素でうろたえているが、いちおう同期同士の阿吽の呼吸で成り立つやり取りなのだろう。
「怒りながらも、しっかり挨拶するところが実にウェンディらしいですね」
 観葉植物の手入れをしていたヴィジャイが言った。
「なぁ、クリス。聞きてーんだけど……」
 ソファに座って足を組んだクリスに俺が近づく。
「この注文請書のここ、どうやって書くんだ?」
「なんだ、フィン。どれどれ……経験豊富なお兄さんに見せてみな」
 書類を手渡してから、俺は踵に尻を乗せるように、膝を開いて床に座り込んだ。
「こら、君っ。お行儀悪いよ。スーツが皺になる」
「へいへい」
 たしなめてきたウェンディに生返事をしながら立つ。クリスが書類に目を通し終わって言った。
「ちょっと難しいよねぇ。いーよ。俺がやっとく」
「まじ!? ラッキー! 頼んだ、クリス!」
「おい」
 同じくソファでパソコンをいじっていたレオが、画面から目を離さずに口を挟む。
「教育担当だろうが。イチから書き方を教えてやれ。いつまでもフィンの口におまんまを運んでやるわけにもいかん」
 とても子供とは思えない冷たい声音をしている。
「あ~ん? よちよち歩きの子供店長がぁ」
 俺が腕まくりをしながら食って掛かろうとして、クリスに手を掴まれる。
「まーまー、いいじゃないの。今度フィンにはみっちり濃密なプライベートレッスンをするから……さ」
 手の甲を指先でなぞってくる。悪寒で手を引いた。
「やめろ、気持ちわりぃ……」
 クリスは微笑を浮かべたまま、書類をレザーバッグに入れた。
「ところで……あんた、今日が誕生日じゃねーか?」
 クリスが「ほぁあ」と声になっていない間抜けな驚嘆の声を出して、勢いよく立つ。
「フィ~ン、うい奴め! 覚えててくれたのか~? 他の3人は一切、祝ってくれたことないぞぉ」
 抱擁しようとしてきたのを肘で防ぐ。
「じゃあ仕事が終わったらクレイジー8行こうぜ」
 俺が言うと、クリスが顔をしかめる。
「すまん。今日は予定があるんだ……」
「ンだよ。つまんねーな」
「え。もしかしてケーキとか用意してくれてた!?」
「いや、全くしてねぇ」
「あ、サプライズだったか……。無粋なこと言っちゃった? うわー、宇宙規模のデリカシーを持つ俺らしくないな」
「いや、ガチでなんも用意してない」
「…………」
 クリスが無言でウェンディとヴィジャイを見る。ウェンディは申し訳なさそうに目を逸らし、ヴィジャイは観葉植物に視線をやって、意図は不明だが頷いた。
「ふん、阿呆め。フィンは誕生日にかこつけてクリスに奢らせようとしていただけだ」
「おい、レオ。言うなよ。でもいちおう言っとくけど、ウェンディも行きたいって言ってたからな」
「何も用意してなかったくせに!?」
 ウェンディはクリスに対してもはや背を向けている。
「なんて温かい同僚たちなんだろうね! 俺、感動しちゃった!」
 そしてクリスはため息をつきながら立ち上がり、レオの隣に座ってしなだれるように、やや体を傾けた。
「なぁ。今日、早上がりしていい?」
 レオの眉がぴくりと持ち上がる。クリスが重ねる。
「いや、この3日くらい、結構残業してるのよ」
 レオがタッチパッドでパソコンを操作している。勤怠管理ソフトを見たのだろう。
「……構わん」
「やったね~♪」
 クリスが再び立ち上がり、踵で無駄にターンをしながら戻り、バッグを優雅に拾い上げる。
「じゃあ、俺は外商の後にそのまま直帰するから。サプライズケーキは明日でもいいよ」
「何の用なんだよ?」
 クリスは入口まで歩いてドアノブに手をかけ、肩越しに首だけで振り返る。
「悪いな、フィン。スウィートハニーが待ってるんだ。今日の俺だけは……ひとり占めだ」
 ウィンクと同時に唇を、ちゅっ、と鳴らして出て行った。
「あいつ……デートなんて毎日のようにしてるだろ」
 俺は一瞬考えて、気付く。
「まさか本命がいたのか!? 俺、聞いてねーぞ!」
「本命っていうか……そういうのではないけど……。まぁ、フィンもそのうち分かるでしょ」
 ウェンディは眉をひそめて小難しい顔をしている。次にレオを見ると黙々とパソコンをいじっていた。
「そのうちって……聞いちゃいけねーのかよ。あ、そうか。さっきの請書も早く帰るために持ってったってことか」
 すると、いつの間にか背後にいたヴィジャイが俺の腰に手を当てながら言う。
「さ、フィン。もうすぐご予約のお客様が来店されますよ。お迎えの準備はできてますか?」
「いっけね! あの客、ニュースの話ばっかりしてくるんだよなぁ」
「一緒に新聞を見て予習しておきましょう」
 話を遮られた気もしたが、新人の俺にとって一人での接客は一大事だ。今日のクリスは誰かがひとり占めしているそうだから、気合を入れて乗り切ろう。

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